JR長野新幹線について

上信急行電鉄の主要路線のひとつである上信線は、その名の示す通り上州と信州を結び、開業より国鉄信越本線と競合しつつ密接な関係を保ち続けて来た。国鉄の分割・民営化後も同様な状況であったが、21世紀目前に信越本線に大規模な変化が発生した。
長野新幹線の開業である。

概要

1970年公布の全国新幹線鉄道整備法に基づき、1973年に整備計画が決定された北陸新幹線に端を発す。当初、北陸新幹線は長野経由で建設が進められる予定であったが、紆余曲折を経て2015年に越後湯沢から津南・上越を経て金沢まで開業した。
長野県内は北陸新幹線の経由地から除外されたが、県都・長野へは別個に新幹線が敷設される事となり、1997年に高崎から軽井沢を経て長野まで、山形新幹線・秋田新幹線に次ぐ新在直通の所謂ミニ新幹線として開業した。
正式名称としての長野新幹線はフル規格で建設された高崎〜軽井沢のみを指し、運転系統・通称としては直通先の在来線(信越本線を改軌・高速化改良した軽井沢〜長野)を含めた新幹線列車「あさま」の走行区間である東京〜長野を指す。

運転系統・列車

新在直通列車「あさま」は一部列車を除き、東京〜高崎で上越新幹線「とき」と併結し走行する。
定期列車は1時間に1〜2本が確保されている。一部時間帯にごく少数の区間列車が存在する以外ほぼ全ての列車が東京〜長野を走破し、途中:上野、大宮、高崎、軽井沢、小諸、上田に停車し、一部列車が中軽井沢、戸倉、篠ノ井に追加停車する。在来線特急時代にはごく少数が御代田、田中、大屋、坂城、屋代にも停車していたが、速達性向上を図るべく停車駅から除外された。繁忙期には臨時列車が東京・上野〜中軽井沢・長野に運転される。
在来線区間には「あさま」以外に地域輸送を担う普通列車も運転されており、「あさま」同様1時間に1〜2本が確保されている。運転区間は軽井沢〜長野の他、小諸〜長野、上田〜長野の設定もある。

車両

新在直通列車にはE3系新幹線電車を、普通列車には701系5000番台を充当しており、ほぼ同時期に新在直通路線となった秋田新幹線(田沢湖線・奥羽本線)と同一だが、車体塗装(路線識別帯色)は異なり、独自のものを用いている。

E3系1000番台・4000番台

E3系長野新幹線

1000番台は1997年の開業に合わせ製造・営業運転に供された。基本仕様は秋田新幹線用の0番台と同一だが、電気方式に相違点(交流25kV50Hz/60Hz・交流20kV60Hz)がある。輸送需要上7両編成を組み、MT比を6:1とし急勾配区間での高速走行に対応している。老朽化が進んだ為2012年以降に後述の4000番台への代替が進んでおり、国鉄時代に東海道新幹線で発生した「0系を0系で代替する状況」と同様の現象が見られる。

E3系分類表(改造車を除く)
番台区分 投入線区 編成(MT比) 電気方式
0番台 秋田新幹線 6両(4M2T) AC25kV50Hz・AC20kV50Hz
1000番台 長野新幹線 7両(6M1T) AC25kV50/60Hz・AC20kV60Hz
2000番台 山形新幹線 7両(5M2T) AC25kV50Hz・AC20kV50Hz
3000番台 山形新幹線 7両(5M2T) AC25kV50Hz・AC20kV50Hz
4000番台 長野新幹線 7両(6M1T) AC25kV50/60Hz・AC20kV60Hz
4000番台は2012年以降に前述の1000番台を淘汰すべく製造・営業運転に供された。基本仕様は山形新幹線用の3000番台と同一である。
双方共に上越新幹線内での併結運転に対応しており、1000番台の就役当初は200系が、後にE2系とE4系が併結相手となった。全車両が長野総合車両所に所属する。

701系6000番台

701系信越本線

1997年の軽井沢〜長野改軌に合わせ製造・営業運転に供された。基本仕様は田沢湖線用のものと同一だが、電気方式に相違点(交流20kV60Hz)がある。2両固定編成のみが存在し、単独または運用・時間帯により4両または6両編成を組んでおり、全車両が長野総合車両所に所属する。

701系・標準軌仕様車分類表(改造車を除く)
番台区分 投入線区 電気方式 電制方式
5000番台 田沢湖線 AC20kV50Hz 発電制動
6000番台 信越本線 AC20kV60Hz 発電制動
5500番台 奥羽本線(山形線) AC20kV50Hz 回生制動
余談だが一連の変革により転配が発生し、長年当地の地域輸送に供された長野総合車両所に所属の115系1000番台の大半が豊田電車区へ転属され、玉突きで同型式の0番台車がほぼ淘汰された。

駅一覧・施設等

長野新幹線 高崎〜長野:115.9km (在来線区間は一部省略)
駅名よみかた粁程接続路線・備考
高 崎たかさき↑東北・上越新幹線(東京〜大宮〜高崎)
安中榛名あんなかはるな18.5
軽井沢かるいざわ41.8フル規格・在来線結節点
中軽井沢なかかるいざわ45.8
小 諸こもろ63.4佐久鉄道線
上 田うえだ81.4上信急行上信線・上田交通別所線
戸 倉とぐら96.4
篠ノ井しののい106.6篠ノ井線・上信急行長野線
長 野ながの115.9信越本線(篠ノ井線/長野以北)・上急長野線
施設等については、

歴史・沿革

前述の通り、長野新幹線はその成立過程からして北陸新幹線と不可分である。従って当項ではそれぞれに纏わる事象を併せて記してゆく。

北陸新幹線の整備計画決定と経路選定

1973年に整備計画が決定された北陸新幹線は「東京都から長野市、富山市、小浜市それぞれの付近を経て大阪市へ至り、東京都から高崎市付近は上越新幹線と共通とする」大まかな経路が示され、鉄建公団を主体とし建設する運びとなった。
経路上の経由地相互間については様々な検討がなされ、松井田町付近から佐久市付近にかけては急勾配を避ける目的により軽井沢を経由せぬ迂回経路(当時の新幹線規格は最急勾配が12‰であり、それによるもの)と、長野市付近から富山市付近にかけては飛騨山脈北部を長大山岳隧道で短絡する経路、その他諸々が立案された。しかし、横軽間の急勾配回避経路については観光資源として絶大な存在である軽井沢を無視するのは営業政策上得策でなく、飛騨山脈をぶち抜く長大山岳隧道は地形・地質両面において技術的に困難である事から、既存の軽井沢駅付近と上越市付近を経由地に含む在来線(信越本線・北陸本線)沿いの経路が選定された。

建設計画凍結から凍結解除・着工へ

斯くして北陸新幹線は建設計画がある程度定まり、建設認可に取り掛かる段階に達したが、国により1981年に発足した第二次臨調の答申に基づく閣議決定により、1982年に北陸新幹線を含む整備新幹線計画が一旦凍結された。
その後、国鉄改革の進展と沿線地域から強く発せられた建設促進要望などを受け、1987年の閣議決定により整備新幹線計画が凍結解除された。しかし1988年に建設費抑制を目的とした計画変更の考案・提案を運輸省より受け、軽井沢〜長野の新在直通化と上越以遠(糸魚川〜魚津・高岡〜金沢)におけるスーパー特急(新幹線へ転用可能な高速新線を狭軌で建設し、当面在来線特急を直通させる)方式による整備・建設が決定した。これらの所謂「運輸省案」は、ひとつの路線が継ぎ接ぎ=全線フル規格でないが故に着工区間の沿線自治体・政治家らは「ウナギ(フル規格)を注文したらアナゴ(ミニ新幹線)やらドジョウ(スーパー特急方式)が出て来た」と非難したが、建設着工を確実なものにすべく彼らは当案を受け入れた。
その結果、先ず高崎〜軽井沢(フル規格)と加越隧道(高岡〜金沢に位置する。スーパー特急方式)の建設が1989年に着工されたが、1991年の富山県から運輸省への経路変更案提示と了承を経て、翌1992年に石動〜金沢がスーパー特急方式により建設着工されると同時に加越隧道の放棄が決定した。次いで1994年に糸魚川〜魚津がスーパー特急方式で建設着工された。

長野新幹線として開業した北陸新幹線

一部区間が建設開始された北陸新幹線であるが、未着工区間、特に長野県内に関しては依然として重大な不確定要素が立ちはだかっていた。
1998年開催予定の冬季五輪における国内候補地として長野県が1988年に選定されたが、他の海外候補地に決定する可能性もあり、関係者間でその動向に注目が集まっていた。一方、冬季五輪開催への期待に湧く陰では、信越本線沿線自治体の一部と上信急行グループが新幹線のフル規格化と並行在来線のJRからの経営分離に反対の意を強硬に示していた。特に上信急行グループにおいては既存鉄道路線の防衛とJRから経営分離される信越本線の処遇が絡む可能性があるが故に殊更反対の度合いが強く、血腥き話も相応に有ったやに伝え聞く。
斯くなる動きを経て1991年、冬季五輪開催地はIOCの最終投票により僅差で米・ソルトレイクシティに決定した。その決定を受けると共に諸々の調整を経た結果、長野へ至る新幹線は運輸省案を踏襲し高崎〜軽井沢がフル規格、軽井沢〜長野がミニ新幹線にて建設され、長野新幹線という形で1997年に開業した。
尚、本来の首都圏〜北陸連絡を目的とした経路には、長野新幹線開業と同じく1997年の北越急行(六日町〜十日町〜犀潟)開業により新たに特急「はくたか」が越後湯沢〜金沢・福井・和倉温泉に設定され、越後湯沢での乗換を伴うものの北越急行線内における高速走行が功を奏し、速達性が向上した。

北陸新幹線の計画変更と建設着工の進捗

前述の通り高崎〜長野が新在直通方式の長野新幹線として建設・開業した事により長野〜上越の着工が遠のいた北陸新幹線だが、1991年以降に代替経路を選定する過程で様々な提案がなされた。その結果、越後湯沢または長岡にて上越新幹線から分岐し上越へ至る経路が改めて基本計画として定められ、下掲の2案に絞られた。

前者はさほど難工事を伴わず、ほぼ在来線(信越本線)に沿った経路となるが、長岡にて列車の進行方向が変わる欠点があり、運転面はもとより旅客営業面においても得策ではない。後者は国鉄時代に計画が存在した北越南線に準じた経路となり最短距離で上越へ抜ける事が可能であり、旅客営業面においても得策だが、北越北線における山岳隧道の難工事同様の事態が予想されると共に同線との二重投資になるという大きな欠点があった。
更なる比較検討の末、より速達性重視に与する後者の案が採用され、1998年に上越新幹線との分岐地点が越後湯沢に決定した。その後2001年に上越〜糸魚川・新黒部〜富山の建設着工と既着工区間をも含めた越後湯沢〜富山のフル規格化が決定し、2003年に越後湯沢〜上越の建設着工と相成った。

北陸新幹線開業

整備計画決定の後、可及的速やかに整備すべき区間として越後湯沢〜上越〜富山〜金沢が示され、大半において2003年までに建設着工されたが、諸般の事情で未着工であった富山〜石動と金沢〜金沢車両基地(→白山総合車両所)が2006年に着工された。
斯くして北陸新幹線は紆余曲折を経つつ2015年に越後湯沢〜金沢が開業し、東京〜富山・金沢の鉄道における最速達経路は北陸新幹線となった。

上信急行と西武に纏わる余録

北陸新幹線の整備計画決定当初、上信急行電鉄グループ総帥の座を初代より継承して間もなかった平林慶幸は「整備新幹線は国土全体の開発・発展をまんべんなく促進する為のものであり、いつ完成するとも分からぬ新幹線に臆する事はない」として、自身の縄張りを侵す存在であるにもかかわらず、表面上は楽観の姿勢を通していた。しかし水面下では、ようやく定まった上信急行の縄張りを防衛すべく徐々に舵を切り始めており、その戦略を練り進めていた。
整備新幹線計画の凍結解除が1987年になされたのを機に前述の水面下での動きが俄かに表面化し、長野県内、特に小諸〜長野の各地域においては上急クループのみならず、一部自治体をも巻き込んだ反対の意を粛々且つ強硬に表明し、それらを基にした反対運動を現地にて展開した。しかしながら、総帥の「長野県内における上信急行グループの縄張りさえ侵さないのならば北陸新幹線自体は大変有用であり、早期開業への協力は惜しまない」という考えは終始一貫していた。
一方、西武鉄道グループ二代目総帥・堤義明は長野県北信・東信地方にリゾート地を複数有しており、それらへの交通手段としての北陸新幹線の早期開業に期待しつつ、協力を惜しまぬ姿勢を見せていた。特に冬季五輪開催(1998年予定)における国内候補地に長野県が選定された1988年以降はJOC会長に就任(1989〜90年)した事もあり、新幹線誘致への動きが活発化していた。
前述の通り北陸地方への新幹線は当初の計画とは異なり、長野新幹線と新潟県内経由の北陸新幹線という形で実現したのだが、その過程において政商と称される堤義明と平林慶幸が共に暗躍したであろう事は想像に容易い。堤は冬季五輪の開催と長野へのフル規格新幹線敷設の目論見が外れ、平林は長野県内の新幹線敷設完全阻止の目論見が外れ、国は北陸新幹線を計画通りに敷設出来ず、所謂「三方一両損」な結果と相成った。
尚、上信急行グループは1960年代後半に富山地方鉄道と友好提携関係を結んでおり、新幹線に纏わる一連の動きが原因でそれが危ぶまれた時期が在ったが、現在は従前の関係を持ち直している。

あとがき

在来線特急時代には上野〜長野の所要時間が約2時間50分〜3時間程度(最速2時間39分)であったが、長野新幹線開業により同区間が約1時間55分〜2時間5分程度(最速1時間47分)と所要時間を短縮した。その速達効果は長野県北信・東信地方各地へ波及した。中でもフル規格区間開業により恩恵をいちばん受けた軽井沢町では、第二次大戦中に大都市圏在住者の疎開による人口急増以来、半世紀に亘りその増加が緩やかであったが、新幹線開業後は半分以下の期間で増加率が倍加し、他地域(主に首都圏)からの観光客来訪数も目に見えて増加した。尚、速達効果という面において全線フル規格の北陸新幹線が北陸地方各地、特に富山県・石川県へ大きく波及したのは言わずもがなである。
斯くして北信越への鉄路は格段に利便性を増したが、長野新幹線にて碓氷峠の隧道を抜ける際には当地の鉄路に関わった先人らの艱難辛苦に思いを馳せるのも一興である。