上信急行電鉄に纏わる物語

事情気の毒・調子良き男

「まもなく、竹沢、竹沢です。」
頭の芯の奥の方から、誰かが囁きかけた。

「ん?竹沢……ハッ!」
男は慌てて電車から飛び出た。
眼前に、妙に長閑な風景が広がる。

欠伸長声「ふぁー……えっと、竹沢っと……北坂戸、高坂、東松山……小川町の先まで来ちゃったよ。」
夜勤明け、東上線に乗る前に池袋北口の立ち飲み屋で一杯引っかけ、自宅のある北坂戸へ帰るべく新高崎行きの急行電車に乗り込み、車窓から背後に降り注ぐ陽の光に「嗚呼、これぞ小春日和!気持ちいいなぁ」と、愉悦のひと時を感じた所までは覚えている。
その次の瞬間、自宅最寄駅よりも先方への寝過ごしが判明したのだ。

「やらかしちまったなぁ……引き返すべ。ん?こんな時って、そのまま引き返したら不正乗車になるのか?ちと怖いから、駅員に訊いてみるべ。」
下りホームの傍らの木造建屋にある改札口へ出向き、駅員に問う。
「あの、すんません。北坂戸で降りる筈が、寝過してしまって……。」
「ありゃま、それは気の毒ですな。では、このまま上り電車で引き返し、北坂戸までお戻りください。あ、こちらをお受け取りください(無賃送還証明書なる切符を手渡される)。」

とぼとぼと跨線橋を渡り、上り線ホームへ。
「えーっと、次の上り電車は……5分前に出ちゃったのか。嗚呼、25分も待つのかよ。」
自らに向けた怒りとも呆れとも付かぬ溜息を漏らす。
上り電車を待つ間、眼前の上り線と向かいの下り線を玉子豆腐色にスカーレットの帯を巻いた特急列車が轟音とつむじ風を立てながら通過し行く。その車内は空いているようだ。

待つ事しばし、上り電車が来た。
川越まで各駅停車の急行である。
走る事ひと駅、小川町で特急列車の通過待ち。
「あれ?また特急?ま、仕方ないな。」
4分の停車を経て、電車は再度走り出す。
武蔵嵐山、森林公園と歩を進める。

「この列車は、急行池袋行きです。当駅にて後ろ寄りに空車を連結いたします。その間に快速急行列車の通過待ちも行います。発車まで6分程お待ちください。」しわがれた声の案内放送が車内に響く。
「おい、また足止め……?普通の電車は冷遇なのか?まったく……今日日、上急で群馬や長野へ行く奴なんか居ねえよ。ふざけんな、この田舎電車が!いつになったら北坂戸へ帰り着けるんかいねぇ……。」「(昔、横浜へ行った時に乗った東横線のように)もっときれいでおしゃれな電車を走らせられないんかいねぇ。」
自身の失態を棚に上げ、上急の悪口をひとりごちつつ、歩みは鈍くも這々の体で北坂戸の自宅へ辿り着いた。



数年後、男は北坂戸に在った庵を川越に移した。
夕方、仕事を終え帰宅する彼は、いつか忌々しげに眺めた特急列車に揺られている。
一日の疲れを癒すべく、西日に染まる車窓を肴に缶ビールを呷り煙草を燻らせつつ微睡み、ひとりごつ。
「嗚呼、上急が特急列車を走らせなければならない理由が分かったよ。やっぱり特急は快適だいね。混み合った電車には乗りたくないもんね。」
彼を乗せた長野(権堂)行き特急は、宵の川越駅に滑り込んだ。

記:2011/05/16